「メシア、人の子、神の子」 05.02.27
ルカ22:63〜71
イエスさまが十字架に向かう道のりのいたるところで、人間の
罪が明らかにされていきます。弱さ、情けなさ、愚かさ、無理解…、
登場する人々の姿を通して、罪の数々が繰り返し描かれます。
そのような人たちの姿を、他人事のように見ることはできません。
そのような人たちを非難して済ませるわけにはいきません。
「十字架に向かうイエスさまの周りに登場する人々の顔をよく見ると、
全部自分の顔だった…」というのが、私たちが受難の場面を読んだ
時に感じるべきことです。
63節で「見張っていた」とあります。イエスさまを監視し、自分の
手の内に捕まえて、自分が優位に立っています。イエスさまの御手に
身を委ねるのがあるべき姿ですが、イエスさまと人の立場の逆転が
起こっています。私たちにも、よくあることです。
66節〜に、イエスさまがどのような方であるかを表す大切な三つの
言葉が出てきます。メシア、人の子、神の子という言葉です。
メシアは、キリストという意味で王として守り治める方です。
人の子は、特に審判者として神の働きを担う方です。
神の子は、神と等しい方です。マタイ福音書では、教会の土台となる
信仰の告白の言葉として、この三つの言葉がまとまって出てきます。
ルカ福音書のこの場面では、そんな大切な言葉を認めず、覆い隠して
いる人間の姿が、描かれます。キリスト教の土台ともなる信仰の言葉を、
認めず、拒む姿です。これも、私たちと無縁の姿ではありません。
イエスさまを自分のメシアとして迎え入れて家庭や職場で過ごすよりも、
人の子、神の子とは認めず無視して生きることの方がずっと多いに違い
ありません。
受難の場面では、自分自身の罪を発見させられます。
それゆえに重苦しい場面です。
しかし、その場面の只中に十字架に向かうイエスさまがおられます。
罪の只中を、十字架を投げ出すことなく、罪を赦すために進んで
いかれるイエスさまがおられます。
そこに、罪による重苦しさを越える希望と慰めがあります。